2013年はエドヴァルド・ムンクの生誕150年にあたり、母国ノルウェーではムンク・イヤーに沸いている。首都オスロにあるオスロ美術館とムンク美術館では、「ムンク150」と題した展覧会が共催されている。ムンクが「私の子どもたち」と呼び、2万点以上残した作品の中から絵画220点、版画等50点を選出し、ムンクの画業を振り返る。
ムンクは生と死を主題とした作品で知られるが、それは幼い頃に経験した肉親との死別に起因する。母親はムンクが5歳の時に、姉は13歳の時に亡くなった。医師であった父はふたりを失ったことにより精神を病んでしまう。ムンクの初期作品《病める子》に描かれた少女は、結核で亡くなった最愛の姉である。次々に愛する家族を失った失望感や孤独、また自身も病弱であるために常につきまとう病や死への不安や恐怖などは彼の作品に大きな影響を与えた。
1892年にドイツのベルリンに移住すると、ライフワークとなる「生命のフリーズ」の制作を開始する。そこに含まれる作品には、愛や裏切り、不安、嫉妬、死などが描かれている。このフリーズの一部として《叫び》(図1)《吸血鬼》《マドンナ》などの代表作が生み出された。ムンクは生命のフリーズを全体として生命のありさまを示すような一連の装飾的な絵画として考え、それぞれ独立した作品ではなく、ひとつの交響曲のように共鳴しあうものとして制作した。1902年のベルリン分離派による展覧会において、それまでに描いた22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を発表した。「ムンク150」展では、このフリーズが約110年ぶりに再現されている。
1909年、45歳の時にムンクはノルウェーに帰郷した。長い外国滞在の後に再び目にした故郷の自然は、ムンクに調和と古典的な作品への興味をもたらした。1916年、オスロ大学の講堂に11面からなる装飾壁画「アウラ」を完成させた。講堂正面に配された作品には太陽が力強く光を放ち(図2)、そのほかの壁面には太陽の光に祝福されるノルウェーの豊かな自然が描かれている。この作品の完成以後もチョコレート工場の装飾画「フレイア・フリーズ」や、オスロ市庁舎のための装飾画など精力的に活動を続けた。絶望に苛まれていた《叫び》から希望に満ちた《太陽》を描くに至ったムンクは、1944年1月23日に80年の生涯を閉じた。
本展の展示会場は二会場に分かれている。1882-1903年の作品はオスロ美術館、1904-1944年までの作品はムンク美術館に展示されている。「ムンク150」展は2013年10月13日まで。