詩情あふれる色彩でさまざまな愛を謳いあげたシャガールの回顧展が、ブリュッセルの王立美術館で開催されている。1908年、シャガールが21歳の時に描いた作品から最晩年の作品までを含む200点以上の絵画作品および、彼がデザインした舞台衣装などが展示されている。
マルク・シャガールは1887 年にロシアのヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)でユダヤ人として生を受けた。絵を描くことに興味を抱いたシャガールは、本格的に絵を学ぶためにサンクトペテルブルクにある帝室美術奨励学校に通い、そこでフランスをはじめとする新しい芸術の潮流に触れた。シャガールの関心は芸術の中心地であるパリへと移り、ロシアを離れることを決意した。
賑やかで都会的なパリの街や共同アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住む画家仲間、レジェ、アーキペンコ、モディリアーニらはシャガールにさまざまなテーマや新しいモティーフを提供し、彼の創作意欲を刺激した。しかし、シャガールは故郷ヴィテブスクを忘れることができず、その風景 (Fig.1) とそこに暮らす家族や人びとの姿、ユダヤ文化にもとづくさまざまなモティーフをカンヴァスに描き続けた。
今回の展覧会は、敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれたシャガールのユダヤ文化や伝統への関わりを主題に置いている。シャガールの名前も、もともとは旧約聖書のユダヤ教の預言者モーセにちなみモイシェ・シャガール(Móyshe Shagál)と名付けられ、パリにおいて現在知られているマルク・シャガールと改名された。
シャガールは、ロシア革命、第一次大戦などの世界情勢の変動によって国を追われ、フランス、ロシア、アメリカの間を妻ベラとともに、さまよえるユダヤ人となって移動した。1941年、シャガールはナチス・ドイツの迫害から逃れるためにフランスからアメリカに渡る。
シャガールと妻ベラがアメリカへ到着したのと時を同じくして、故郷ヴィテブスクがナチス・ドイツ軍の侵略によって灰塵に帰し、その三年後には、愛してやまなかったベラが急死する。戦争により故郷を失い、そして愛する妻を亡くしたシャガールにとって芸術は絶望から逃れられる場所となった。彼は、レオニード・マシーンが振付したバレエ「アレコ」とイゴーリ・ストラヴィンスキー作曲、ジョージ・バラシン振付によるバレエ「火の鳥」の舞台背景と衣装のデザインに没頭する。第二次大戦後はパリに戻り、1960年にアンドレ・マルローの依頼でオペラ座の天井画の制作依頼を受け、より大きく自由な作品を描く機会を得、見事にそれを成功させたのである(Fig.2)。
97年の長い生涯において、旺盛に制作をつづけたシャガールの多彩な世界に浸れる展覧会である。
シャガール回顧展は6月28日まで(月曜日、5月1日休館日)